前回の2つの記事(前編)・(後編)では、第1話「光を継ぐもの」を通して、登場人物たちがどのように神話と接触していくのか、そしてティガの物語がどのように神話として始まっていくのかを掘り下げました。
今回は、第2話「石の神話」におけるユザレとダイゴの会話から、とても重要な問いが見えてきます。
光とは何なのか、そして、光や力を使うということは何を意味するのか。
ガクマと人間の対立、ダイゴの選択、そして力を持つ者たちの行動を通して、この問いを掘り下げていきたいと思います。
ガクマはなぜ人を襲ったのか
ガクマはもともと洞窟に住み、そこに生息する動物や石などを食べて暮らしていました。しかし、人間が生活のために石を掘り出し、さらにガクマが蓄えていた石まで持ち去ったことで、食料を失っていきます。
やがて採掘場では、作業員たちが石にされ、行方不明になる事件が起こります。その後、TPCが捜索に入り、隊員たちも被害に遭います。やがて、ガクマは地上へ姿を現します。
作業員は「ガクマは怒ってとうとう人間を……」と語っています。したがって、作中ではガクマの行動を「怒り」と捉える見方が提示されています。しかし、それがガクマ自身の感情として客観的に確認されているわけではありません。
では、ガクマは人間に恨みを抱き、復讐するために襲ったのでしょうか。
確かに、人間に対する怒りはあったかもしれません。しかし、その行動は恨みから相手を傷つける復讐というよりも、生存を脅かされた生物が、生き残るために起こした反応に近いように見えます。
ガクマは悪意から人間を攻撃したというより、人間の採石によって生存条件を奪われ、その結果として人間と衝突するようになったのではないでしょうか。
怪物はどのように「怪物」になるのか
ガクマは、もともと島に伝わる神獣として語られていました。もし人間が石を奪わなければ、ガクマは洞窟の中で暮らし続け、人間と衝突することも、怪獣として倒されることもなかったかもしれません。
そう考えると、ガクマを人間にとっての「怪物」として顕在化させたのは、ある意味では人間自身だったとも言えるのではないでしょうか。
人を石に変える怪物の神話として連想されるのがメドゥーサです。
オウィディウス『変身物語』では、メドゥーサはポセイドンによる被害を受けたのち、アテナによって怪物的な姿へ変えられ、最終的には英雄ペルセウスによって討たれます。
もちろん、この神話が第2話「石の神話」と直接対応しているのかは分かりません。
しかし両者には、先に何らかの被害を受けた存在が、その後「怪物」として人間の前に現れ、英雄によって倒されるという構造上の類似があります。
ガクマもまた、人間によって生存条件を奪われ、その結果として人間と衝突するようになります。そして今度は、人間もまた自らの生存を守るためにガクマを倒します。
人間側から見れば、それは怪獣から人命を守る行為です。しかしガクマ側から見れば、食料を奪った人間が、最後には自分たちまで排除したことになります。
では、どちらが「怪物」なのでしょうか。
怪物や英雄という呼び名は、出来事そのものに最初から備わっているものではなく、誰の側から物語を見るかによって変わりうるものなのかもしれません。
ダイゴはなぜ『英雄』を拒んだのか
ダイゴとユザレの会話を見ていきます。
ユザレ「ダイゴ。またの名をウルトラマンティガ」
ダイゴ「君はホログラムじゃないのか。」
ユザレ「これは、ホログラム。でも人工知能が組み込まれてある。」
ダイゴ「なんで俺だけに、君の声が聞こえるんだ」
ユザレ「あなたはウルトラマンティガだから」
ダイゴ「違う。俺は俺だ。ウルトラマンティガなんかじゃない。」
ユザレ「ダイゴのDNAには、古代の英雄戦士の情報がプログラミングされている。」
ダイゴ「なんだ、それは」
ユザレ「ダイゴの持つスパークレンスこそ、ダイゴのウルトラマンティガたる英雄の証」
ダイゴ「こんなもん」
ダイゴはスパークレンスを床に投げつけます。
ダイゴはこの後、スパークレンスを拾ったヤズミに「俺のだ」と言って受け取り、胸に納めています。そしてガクマが人間を襲おうとした時、ティガに変身しました。
行動を見ていくと、ダイゴはティガになることそのものを拒否しているのではないように見えます。
ダイゴは「ウルトラマンティガ」「英雄」と人から規定されることを拒んでいるのではないでしょうか。
それは、怪獣を倒す力を持っているからといって、最初から自分が「英雄」であると決められることへの抵抗だったのかもしれません。
しかしダイゴは最後には、自らの意志で人間を守る側に立つことを選びました。
光は正解を与えない
先ほどのユザレとダイゴの会話の続きを見ていきましょう。
ダイゴ「だいたい君たちは、あんなに高度な文明を築き上げながら、いったいどこへ行ったんだ」
ユザレ「あるものは、滅び、あるものはほかの土地へ向かった。」
ダイゴ「あんなにたくさんの巨人がいたのに、君たちを守ることはできなかったのか」
ユザレ「ウルトラマンは人類の選択にまで干渉しない。なぜなら彼らは光だから。でもダイゴは別。あなたは光であり、人である。」
ユザレによれば、光である巨人は人類の選択に干渉しません。ではダイゴの中にある「光」は何なのでしょうか?
作品では、その正体が明言されているわけではありません。
しかし、第2話におけるガクマとの対立を見ると、光は絶対的な善そのものではなく、誰かを守ろうとする意志に応じて使われる力として描かれているようにも見えます。
ガクマを倒したこと自体が、宇宙的な意味での「正解」だったとは限りません。人間であるダイゴが、人間を守る側に立つことを選び、その選択に光の力を使ったのです。
それぞれが力を使うとき
ダイゴは、英雄になるためではなく、人々を守るためにティガの力を使いました。
またTPCは、GUTSが怪獣に対応できるよう、ガッツウィングを戦闘用に改良するよう命じます。ホリイとレナも、カシムラ博士に反対されながら、できるだけ早く怪獣に対応できる機体を完成させるために尽力しました。そしてGUTSのメンバーは、完成した機体でガクマに立ち向かい、人々を守る任務を遂行します。
一方、親方は作業員たちの「ガクマが出たんだ」という訴えを「さぼるための言い訳」として退け、自らの立場を使って、再び作業へ向かわせようとしました。
もちろん、親方は作業員たちを危険な場所へ意図的に送り込もうとしていたわけではありません。しかし、作業員たちの訴えを確かめるより先に言い訳だと決めつけ、自分の判断を通そうとしています。
ダイゴやGUTSが力を人々を守るために使ったのに対し、親方はその立場の力を、自分の判断を押し通すために使ってしまったとも見ることができます。
ここでも問われているのは、力そのものではなく、その力を何のために、どのように使うのかということではないでしょうか。
力を持つ者に必要なもの
力は、それを持つ者の善を保証してくれるものではありません。力を持つ者は、その力を使うことでどのような影響が生まれるのか、そして何のためにその力を使うのかを考えなければならないのではないでしょうか。
作業員たちから、ガクマについて「角は1本だった」「角は2本だった」と異なる証言が出た際、サワイ総監は、誰もガクマの姿を正確には見ていないのだと判断しました。
しかし実際には、ガクマは二匹存在しました。
もしこの時点で「証言が食い違っている」のではなく、「異なるガクマを見ていた可能性がある」と考えることができていれば、その後の対応も変わっていたかもしれません。
もちろん、怪獣への対応そのものがまだ始まったばかりであり、この判断だけをもってサワイ総監の過失だったとまでは言うことはできないでしょう。
それでも、判断する立場にある者の決定には、人命がかかることがあります。力や権限を持つということは、それだけ大きな責任を引き受けることでもあるのではないでしょうか。
最後に
互いの生存が衝突したとき、人間は正しさではなく、自分たちが生き残るために相手を殺めるという選択を迫られることがあります。
その選択を、単純に「正義」と呼んでよいのでしょうか。
第2話のダイゴの在り方は、私たちにその問いを投げかけているように思います。
人は、人々を守るために力を使っていたとしても、その選択が絶対的に正しいとは限らないことまで引き受けなければならないのかもしれません。